「じゃがいものみそ汁」
小学校6年生のときの担任の先生は、キャラが濃くインパクトの強い先生でした。
何につけてもこだわりを持っている先生で。。。ノートひとつにしても先生オススメのものだけを使うように言われたため、私達はノートを先生から買っていました。
食事、健康、文字の書き方。さまざまなジャンルにおいての “先生独自の理論” を、授業中授業外問わずたくさん聞かせてもらいました。その中のひとつが、いまだに忘れられません。
その日は、どこからか始まったみそ汁の話でした。
じゃがいも、否定される。
「みそ汁の具にじゃがいも、というのを時々聞くが、ありえない。あんなのはダメ。みそ汁の味が死ぬ。」
強く言い放たれた言葉に、私はショックを受けました。自分の家では、ちょくちょくじゃがいものみそ汁が食卓に並んでいたからです。それが普通だと思っていたからです。
どんな顔をしていいのかわからず、ひたすら目立たないようにうつむいていた私をよそに、クラスメイトは口々に賛成の声をあげました。まさに「そうだそうだ!」という感じでした。
黙っているだけでじゃがいも肯定派に見えるんじゃないかと、そんなことすら考えてびくびくしながらその場をやり過ごしました。
どうしてつらかった?
実をいうと、私自身もそこまでじゃがいものみそ汁が好きなわけではありませんでした。今もそうです。じゃがいももいいけど、わかめやお麩のほうがテンションが上がります。
でも、もう家のごはんって、誤解を恐れずに言うなら「好き、嫌い」で食べるんじゃないっていう部分がありませんか? “これがいつもの” だと思うとそれ以上の評価がいらないような感覚。うちのじゃがみそ(略しました)もそうだと思っていました。
それが、先生の発言によって自分の気持ちが露呈し、みんなと同じように自分もじゃがみそを「あんまり」だと思ってたことに気付いてショックだったのだと思います。それとやっぱり、自分の気持ち関係なく、家で普通に食べてるものを全否定されたことのつらさと…でしょうか。
どんな言葉なら
私は100%主観で話しているので、誰か他の人がこの話を聞いたらどう思うのか、わかりません。
生徒の前で物事を決めつけるなんてよくない先生、と思う人もいるかもしれないし、それくらいで動揺する筆者がどうなのと思う人もいるかもしれない。
私は、今の私としては主観ですが…当時の状況からは距離がある、という意味での “客観的” なつもりでこう思います。
“「と思う」をつけてくれるだけでよかったのに…”
「先生は、じゃがいものみそ汁はありえないと思う。」
同じ内容でも、さっきと全然違います。これはあくまでも私の意見ですよ、という文意が読み取れるぶん、言われる側のショックは少なからず軽減されるのではないでしょうか。自分にとってじゃがみそは “ありえない” けど、あなたにとってはどうかわからないから、あなたの中にある世界のことまで決めつける気はありませんよ。そんな意味合いが「と思う」という短い言葉には含まれていると思うのです。
逆に言えば、先生は自分の考えについて大きな確信と自信を持っていた方だと思うので…(無意識かもしれませんが)あえて「と思う」を使わなかったのかもしれません。じゃがみそはありえない。自分にとっても相手にとっても誰にとってもありえない。先生にとっては “事実はひとつ” だったのだと思います。
自分はどうする
強い気持ちをもってひとつのものを否定した先生と、それによってショックを受けた私。
私にも “ありえない” と思うものはたくさんあります。それについて人に話すとき、自分ならどう話すだろうと考えました。
そして、思いました。やっぱり私は、誰の世界も否定したくない。
相手の世界が確固たるものなら、たとえ私がそれを否定してもカーンと跳ね返されるだけでしょう。だから相手のために否定しない、というのとは少し違うのです。
元々、私は自分の世界に自信がありません。ありえないと思うものだって、自分の偏った思い込みから来ているものが多いと思います。だから私は、どんな人の世界ものぞき見させてもらいたいです。
そして、いろんなことを吸い取らせてもらおうと目論んでいるのです。だからありえないと否定してUターンなんてもったいないのだ!ふんふん(((o(*゚▽゚*)o)))
と思う!
だから今日も「と思う」を連発します。
私はそう思うだけ。だから気にしないであなたの世界のこともガツガツ教えてほしい。そんな気持ちが伝わればいいなと願いながら。
大好きなメニューではなくても、じゃがみそは今でも家の味です。うちではフツーだ!と自信を持って言える今なら、何を言われてもカーンと跳ね返せると思います。